2011年3月11日は千葉に居住し勤務地は都内だったので、応じて地震動を経験し自宅でも破損倒壊等の影響はあった。そのまま、ずっとその日のまま、心の一部が引っかかっていることは否めない。道ばたの釘に衣服を引っかけて糸がずっと伸びているよう。
在宅勤務なので東北へ向かい頭を下げる時間を取らせてもらう。余りにも多くの命が失われすぎ、応じて備えと不足の多さを痛感させられた。
当時の千葉市内。左側のお宅は屋根瓦が破損してブルーシート。奥の方に映っている鉄骨の橋は千葉都市モノレールの軌道。すなわち被害はこの程度。一方で成田市内は震度6弱に達したし、海沿い山武や銚子は当然津波の被害を被っている。
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記憶は鮮明だし、揺れの感覚も残っている。ちなみにこの時娘は小学校からの下校途中で、「たまたま」鉄筋アパート立ち並ぶ街区で「たまたま」通りすがりの郵便配達員さんが気に留めてくれた。古い建物が多かったら?海岸沿いであったら?……そうこの結果は神仏に感謝して然るべきなのだ。
時々貼ってる名古屋市内「大幸八幡社」にある「震災紀年碑」。濃尾地震の災害と復興に関わる天皇家への謝辞を記した物。こういう石碑には当時の人々の「語り継ぐべき」という強い思いと、当時なりの見識で表現された恐ろしさが記録してある。それは決して科学的・学術的な記載ではなかったりするので、滑稽・大げさに映りがちではある。だからこそ、我々は、当時の人々が伝えたかった内容を現在の知見で解釈し、自らの備えと未来への知見としての申し送りをする義務を有する。例えば鉄砲水は「大きな黒い蛇」と表現されたりするが、それは真っ黒な濁流がうねうねと秒単位分単位で流路を変えながら高速で流れ下ってくる有り様の表現であり、濁流には「重く大きな物」がその先頭に集まっているので、凄まじい破壊力を持つことを知見として共有する必要を示唆する。ちなみに東北地方太平洋沖地震の「1つ前」は「貞観地震(869年)」であり、その言い伝えには「空が光り、多賀城まで津波が達した」とある。しかし「地震で空が光るわけがない。多賀城まで津波が及ぶことはない」として、この記述は長い間真面目に顧みられなかった。21世紀になって「想像を絶する津波の痕跡」が日本のあちこちで見つかるようになって、「貞観地震もひょっとして」と再評価を始めた矢先に起きたのが当該地震である。なお、「空が光る」は、現在においては、岩盤同士の接触による火打ち石的な火花や、石を変形させると「ピエゾ効果」と言って電磁波を放つが、これらが夜の雲に反射したものと科学的な解釈が与えられている。気仙沼に「津波で大島が3つに割れる」という伝説があるが。
この島のくびれた部分を津波が乗り越える、というわけだ。それは単なる「大げさな尾ひれ」ではなく、過去本当に起こった出来事の伝承であることは論を待たないであろう。2011年にそこまで至らなかったのは、海面高さや地盤の隆起沈降、地震の性状がその時とちょっと違っただけのことだ。
我々が失われた御霊に報いる唯一の道は再発防止である。なお八坂神社の祇園祭は、相次ぐ疫病にとどめを刺したような貞観地震をきっかけに始まったと言われるが、ここにも疫病・災害を申し送り、その災禍再び起こること無きように、という人々の思いと祈りが込められていると見て良い。
南海トラフに向けて備えを。
★紀年碑書き下し文★
嗚呼明治二十四年十月二十八日は如何なる凶日ぞや 轟然万雷の鳴響を発し巨大なる地震尾濃両国の 平野に起り瞬時にして地裂け家倒れ為めに圧死 負傷せし者本村に於いても幾十名の多きに至り実 に言語に絶せし惨状を極めたりき。我が大字堤防用 水路の如き悉く崩潰せしを以て一朝洪水に際せば 家屋を流し田圃を失うや必せり故に到底茲に 永住するぞ目処なきを以て人々挙りて他町村へ 転居せんと欲するに至れり。然るに畏くも 聖上皇后両陛下より莫大の救恤金を下し賜わ り且つ復旧工事費七千余円国庫金を以て下附せ られし故に村民工事を請負に日々工夫千余人を 督し窮余にして効成り旧形に復せりの千衆民此 に安堵し業に就く事を得た。これ実に 皇恩の尊きと其他諸国有志者の義捐金を恵興せ られしとに依れり部民一同感佩に堪えず茲に之 を表す。 明治二十六年十月二十八日建之 六郷村大字大幸 一同
ああ、明治二十四年十月二十八日とは、なんという凶日であったことか。 雷のような大きな轟音とともに巨大な地震が起こり、美濃・尾張の平野を襲った。
大地は裂け、家々は倒れ、瞬く間に多くの人が下敷きとなって亡くなり、また負傷した。 本村においても数十人に及ぶ被害が出て、その惨状は言葉では言い表せないほどであった。
さらに、我が大字の堤防は用水路のように崩れ、洪水で家屋は流され、田畑も失われてしまった。 このままではここに住み続けることはできないとして、村人たちは皆、他の町や村へ移り住もうとするまでになった。
しかし、恐れ多くも天皇・皇后両陛下より多額の救恤金を賜り、さらに復旧工事のために七千余円の国庫金を下賜された。 そのおかげで村人たちは工事を請け負い、日々千人余りが働いて復旧に努め、ついには元の姿に戻すことができた。
こうして村人は安心して暮らし、再び生業に励むことができるようになった。
これはひとえに天皇の深い御恩と、各地の有志の方々から寄せられた義捐金のおかげである。 村民一同、深く感謝の念に堪えず、ここにそのことを記して後世に伝えるものである。
明治二十六年十月二十八日建立 六郷村大字大幸 一同
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