出張の移動時間11時間で昼メシは自腹と申告したがいいのだろうか?
こういう波瀾万丈と異世界を経験すると「短歌のネタや~ウヘヘ~」になるのだが、イザとなると「省略の美」の落とし所が難しい。「こじらせるとネタに困る度に旅に出るようになる」とは「シン・短歌入門」でウチの師範の物言いだが、旅に出た結果ネタが多すぎるというのもまた困るのである。情報量の多さを如何にピンホールカメラのようにシンプル化して伝えるか。
ネット工事立ち会いのシンカンセン予約しとこか。
聞こえるはゲームの用語とゲットだぜカントー地方鶴舞公園
NHK、Eテレのミニドラマ「念力家族」の原作短歌で知られる笹公人さんをお迎えしての歌会。事情でGW真っただ中になってしまい、新幹線はグリーン車しか空いてなかったとか。えらいすんません。
短歌は「結社」(直訳するとシンジケートw)と呼ばれる同人会に属し、それぞれが発行する雑誌に師範の選を経て載せてゆくスタイル。そのほかにこうして師範をお迎えして歌会を開き、講評を得たり、相互交流を深めたりしている。別の結社の歌会や、別の師範の歌会に出て視点の相違を感じたり刺激や知見を得るのもよいこと。
さて我ら「笹欄」はタイトルで分かるように、「ちょっと変」な視点がOKで、コンサバなイメージのある「短歌」のなかではフリーダム性が高い。眉ひそめる向きがあろうが、平成最後の昭和の日を強く感じるグループであるのは確か。
名古屋歌会は4回目であるが、「何か具体を有し、場面が浮かぶこと」は、ほぼほぼ達成されているやに思う。難しいのはその先で、万人受けと凡庸さのトレードオフ、専門・独自性の面白さと理解・共感の容易性のトレードオフなど、さまざまに考慮すべき部分が存在する。そこは芸術とテクニックのトレードオフでもあり、三十一文字の奥深さに唸るよりほかない。ちなみに今回はこの古典文体ならではの表現と、コンピュータベースの最新技術用語との対比を扱った作品も見られた。
個人的には「意図を伝える」テクニックで稚拙さを再認識。ダラダラ書き足していけばいい小説と真逆の「濃縮」が必要。推敲による練りこみと洗練が不可欠なのだが、実は現状の時間効率をのべつ考えてる多忙環境でそれは不足しがちなところ。それが必要ないのは才能がある人。
階段をとりあえず1段上ったつもりだったが踏み外したらしいw
にしても多様な知識と視点を集約分散(持ち寄ってシェア)するのは大いなる刺激になりおもろい。みなさんまたよろしゅうに。
…オレの腕(短歌化変換エンジン)が悪いんだけどさ。
・「ものづくり」って日本は1年掛けて熟練工を育成しようとするんだよ。新興国は1年掛けて稼いだお金で最新の製造機械を買うんだよ
・その製造機械が日本の熟練工が作ったヤツだったりしてな
・建て替えに備えて使用中止になった食堂が急に寂れて見える件
・屋根が描くノコギリの影はいつまで見ることが出来るだろう
・大規模な草刈りしていた通路脇赤土に残るすみれ紫
…最後三十一文字なのはただの偶然。はしか流行、セクハラ次官疑惑、世界情勢に置いて行かれるモリカケ。
歌会。すなわち集まって短歌の詠み会。
たまに書いてますが、歌人の笹公人さんの下で活動中。今日は名古屋にお招きして歌会。
各人二首ずつ詠んで、相互批評。自分のは下から数えて早いほう。でもいいのです。「こうするともっと良くなる」が得られたから。「字面」(文字自体が持つビジュアルイメージ)とか、基本的に考えて文章編まないので非常に勉強になる。とはいえそういうテクニック以前の完成度が低いんだけどね。
読み手の立場や年齢によって感想解釈が異なるのも面白いところ。それを故意に狙う場合もあれば、やり過ぎてもやっとしか伝わらない場合もあり。ちなみに万人受けを狙うと凡庸となり、先鋭化しすぎると共感してもらえない。
「叙情」を標榜している選歌欄です。それは感情の表出であって心動かされる瞬間の切り取り。それを三十一文字に凝縮してどう伝えるか…千年以上続く理由もその辺でしょう。
懇親会ココ。美味しかったので紹介しておきます(画像クリックで公式)。なお入れば分かりますが、笹公人さんのサインござるですよ。
またよろしくお願いします。
結社誌に載せているにも関わらず、数的にも質的にもイマイチだったと自己評価(批判)。私事いろいろあったわけだが、都度、書き残してこなかった。これに尽きる。「自分っぽさ」を探しているわけだが、それ以前に「短歌を詠む」行為と出来映えを一定水準に上げる必要があろう。作風なんかその先の話だ。小説は面白きゃいいって部分があるが短歌は芸術だ。収斂と結晶化の作業がどうしても必要で、そのためには素材の数が多くないと話にならぬ。感情揺れ動きを書き留め、応じて三十一文字に昇華する習慣づけが欠かせない。
ただ、薄利多売というか数ばかり多くて薄まってしまっては元も子もない。「濃さ」をコントロールする必要があるのだが、それにしたって数をこなさないと見極めは付かないだろう。少なくも2~3日に一首程度のペースは保った方が良さそうだ。ちなみに前も書いたが「短歌にしたい」という感情は放っておくと年に1~2回というペース。これではコンスタントに活字化とかムリ。
喪中にて紅白揃った売り出しを避けて求めるサンマの開き
「これは短歌にしたい」という情動に駆られることが年に1~2回あると前に書いた。毎月提出するようになって意図して短歌読むようになったわけだが、情動が増えたかというとそんなことはないw。基本的に詩人の心理ではないのだろう。
その情動たるは見聞きした何かに心揺さぶられ、ときめいた証左なのだが、仮にそれだけを求めるならば、感覚を行き過ぎるあらゆるモノに神経を研ぎ澄まし、ときめきを探して回ることを要求する。それが自然に出来てしまう(気になってしまう)人を人は「感受性」という指標で評価する。しかるにオレの感受性は低い。それはさておき。
その鈍い感受性が動いた記憶を「在庫」と呼ぶならば、その在庫を払い出してどうにか月5首を捻出して送っている。それは結構苦しい行為であって、推敲を省略できない。その推敲は非常な集中力と応じた時間を要求する。「若いうちは変化球を使わず直球勝負で行け」とは野球の投手に対する至言だが、直球がすなわち感受性ならば乏しいので変化球を使わざるを得ない。ともすれば言葉遊びになりかねないのでさじ加減が難しい。そんなことに苦悩しているあたり短歌の本質からずれている。
ただ。テーマアップさえ在庫の量とマッチングが取れれば、まぁそう呍吟苦悩せず「三十一文字にまとめれば良いモノ」引き出すことが出来るようになってきた。ただそれが「良い歌」かどうかは話は別である。「何を詠み込もうか」ここの苦悩が少なくなっただけ。そこが少し変わったのでフェーズ2と称している。
ツイッターで「おっぱい短歌」というハッシュタグが回ってきたので1首詠める。感受性がときめいたらしいw
小さくもほどよいサイズも巨大でもおっぱいならばみんな大好き #おっぱい短歌
笹公人さん。歌人。歌集「念力家族」はNHKのEテレでドラマ化された。
短歌は師範の元で短歌誌に出し、良作だと大きく表示されたり……という形で技量と名を上げて行く。以外に、歌会に作品を持ち寄り、相互に批評し合い、「刺激」「気づき」「糧」を得る。笹さんはお住まい東京だが、定期的に名古屋へ来ていただけるようになった。お迎えして歌会である。
凡庸←万人受けを狙う VS 個性を尖らせる→マニアックすぎて理解できない
一例を挙げたが創作表現はこの手のバランスが大事。なおかつ場面が浮かぶ、五感が動く、心象に共感できる。……理屈で書くと難しくなってくる。ちなみに全て兼ね備えようとすると丸くなって凡庸そのものになるという切歯扼腕。結局、尖らせ方のセンスと「感性」という、それこそ凡庸な書き方しか求められる方向性の表現のしようがない。ただ言えるのは、反応を計算して作ると失敗するということ。心揺さぶられたあるがままを、故意に揺さぶろうと思わず、三十一文字に集約する。そぎ落として。そう、光集約するレンズのように。拡散するのは読み手の感性。
ちなみに歌会はコテンパンのけなし合いをする地域・参加者もあるようだが、ウチは感性も職種(知識)も多様なので、なにがしか知識の集約と分散(それこそレンズと同じ)が行われ、必ず「気づき」と「知らなかった何か」を参加者が持ち帰れるのが特徴、というかそうなるように努力している。お疲れ様&ありがとうございました。
拙作
・題詠「草」
刈り取られ茶色くなった堤防でショウリョウバッタを拾って帰る(評価1/14)
【解説】土盛り堤防の草むらにバッタ取りに行ったら、草が全部刈られて丸坊主。基本バッタは住めない状態になったのだが、ショウリョウバッタだけ緑で一匹ぽつんといたので取って帰った。子供の頃の記憶に基づく
「堤防」という表現が失敗だった。コンクリかちかちのタイプを思い起こさせた。「ショウリョウバッタの『生命感』を強調したかったら、草むら焼いた方が良かったのでは?」なるほど。
・自由詠
終わったら身体ゆすってぶるんぶるん見栄を張るなり旅先の厠(評価0/14)
【解説】見たまんま。ネタ狙い。笑いが取れたので良しとする。こーゆーのが許されるのがウチの特徴。
「でかいのを自慢したいのかコンプレックスで虚栄を張りたいのか判りづらい」……はい。
季語など縛りのある俳句より緩い。そんな短歌の世界でも更に緩い。その緩さが裾野を広げる。いい加減上向いて登れ?。うん、裾野をぐるぐるしてると、裾野の広さ故に時間ばかり消費する。それは判っている。ただ登山路が、「短歌が好きで短歌始めた人」とは異なるアプローチラインがまだ固まらない。電子の挙動で仕事してる人間ならではにして共感を得られる短歌ってどんなもんだろう。
結社(同人サークルのような物。作品を月刊誌で発表)に属してしばらくになる。ここで「壁」を感じている。
「短歌にしてえ!」という感情が突如わき起こり、実際三十一文字が紡がれて出てくる、という経験は10代の頃からあるにはあった。そのわき起こるタイミングでたまたま笹公人さん(Eテレドラマ「念力家族」)のラジオに接する機会があり、作品が取り上げられた。で、結社に誘われた……のであるが。
突如わき起こる、をコンスタントに誘発することは難しいのである。意図的に短歌を詠もうとすると、記憶の映像と文章に関するテクニカルなエンジンが恣意的に疾駆される。だがそれは短歌としては不自然なのである。読めば画面が思い浮かぶ、でもただそれだけ。それが現状の自己評価。一つ判ったのは何かテーマを決めて縛らないと散漫になってしまって感情を惹起するような領域に至らず、そぎ落とさないとギュウギュウに詰め込んで31文字にまとめただけ、になる(テクニカルな部分)。この辺、理屈をねちねち積み上げて行く理系的な思考論述が邪魔をしている。要するに詩人ではないのである。リリックな風景を日常から切り取る感性が圧倒的に不足しているし、レンズとして収斂する能力が圧倒的に不足している。小説はスケールやスピードのコントロールが出来る反面、動きを止めるのが難しい。一方短歌は一瞬を通じて高速を描いたりする。
・詩人ではない
・理屈屋
・テクニカルエンジンはそこそこの性能
で、感情を揺さぶる力積を持ち、一定数の「量産」が効くか。
勿論そこにはエンジニアならではを感じさせる部分が無いとオリジナリティが出ない。良作の二番煎じや受け狙いでは「核」が備わらない。
技術や発見、理論は「いつかお話のネタになるかも」とちょいちょい調べることがある。それがインプットであるならば、短歌につながるインプットが別途必要だ。
言霊よ我に力を与え給え。
言霊「そののべつスマホからまず目を離せ」
へい。
「逆伊賀越え」をして。
阪堺電車で堺に下る。
さかい利晶の杜(りしょうのもり)。
「利」と「晶」はそれぞれ堺に地縁を持つ千利休と与謝野晶子である。なお、建物の立地は利休邸跡のはす向かい。
歌人・笹公人さんのお誘いを受けて短歌会に属したことは時折書いているが、その笹さんの短歌をモチーフにしたNHK・Eテレのミニドラマ「念力家族」の展示会に出かける。
ここは常設が戦国の貿易港・堺であり、利休であり、そして与謝野晶子であるが、その特別展という体。今日は笹さんが来場され、併せて茶会と歌会という風流極まる流れ。
展示物は番組で紹介した短歌の他、単行本の装丁や推薦文の原画・原稿など。ちなみに笹さんの作品に与謝野晶子を盛大にパロったもの返歌があり、イベントの起点になっている。
一通り見終わって笹さんと合流し、茶室へ。
(画像は公式より)
繋がり繋がりで集った皆さん。お店、作家、マンガ家、プロレスラー。
(三千歳【みちとせ】という「三千年に一度咲く梅の花をイメージ」した創作和菓子/京都・嘯月さん)
この歌会に参加された方(笹さん除き十名)の中に茶人が三名。
基づいて、ガチ裏千家。
作法?知らんよもちろん。妻の嫁入り道具に茶道具一式あって、常滑焼で抹茶を点てるが、ほぼ武将の酒盛りみたいな飲み方。
が、いただいたお茶はそんなことどうでもいいレベル。抹茶が苦いというのは作られた嘘と知ってはいたが、逆に本当に美味しい抹茶というのを初めて知った。へ~!てなもの。
「この後歌会ですが…」
「歌は何に書きましょう」
「懐紙(かいし)でどうでしょう」
懐紙。そう、これに一首したためて読み上げようって、風流もここまで来ればもの申すことは無し。なお、この菓子の写真はその歌会の際に頂いたものを撮り直したもの。写メOKの茶会などない。
順繰りに詠んで行く。即興。お題は「利」。ちなみに「利」は利休の利だが、便利の利であり目利きや利き手などの利でもある。色々詠める。流石笹さん目の付け所ステキ。
で、念力なのはこの後。10人の作品から「良い」と思った方三名を挙げて行く。得票多い方から三名に特典、という目論見だったが。
「得票は?」
「それが…」
8票が3名。すなわち888のこれ以上無い末広がり三連発。
「おお」
「素晴らしい」
理系のコメントは無粋なので止めておく。
自作を晒しておく。
お題:利
・手のひらの便利で予約争奪戦 電波届かぬ宿の星空
更に帰路で浮かんだのこれ。
・改札にカードをかざす君を見て利き手が左であることを知る
さて、工場に戻りますよ。皆さんありがとうございました(^^)
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