「クローズアップ現代」で本読み組とネットオンリー組で論文書かせたらネット組マジコピペしてマジ焦った。最も昨今テレビにどれだけ公正正確を求めるかって話しあって、これが事実かどうかはワカランが。
論文ちゅーのは与えられたお題に対して既に何か意見あるなら論拠に基づいて論理立てて書くだけだし(←しゃれっと難しいことを書いておく)、無きゃないで広く意見集めて自分の思いを収斂させ、論拠根拠に基づいて論理立てて書くだけだ(←前者との微妙な違いに注意)。
で、ネットが役立つのは「広く意見を集める」である。世の中是があれば非があって普通で、選択の果ての正解は過去にならないと分からない。なのに「答え」を求めてネットに入るからコピペで終わりになってしまう。ネット上の意見を読んで「ふ~ん」と思うのは結構。それはその意見が「論文」として良く出来ているということだ。だがちょっと待って欲しい。それは「正しい」か?
「正しい」と言うには理論的、論理的にそうなるという「理由」か「事実」が必要になる。一方で論を求めるのは「正しい」という「結論」が出ていないか、新たな知見として別の論が出てきた場合、ということになる。論文を書くという行為はそうした「知」と「知」の衝突点に参加する、自分の意見を武器として戦いを挑む事を意味する。「論陣を張る」というヤツだ。
(ロンジンを貼る。ってやかましいわ)
これの意味するところは、
・なぜ、そう思うのかという理由
・反対意見が出た場合にそれを否定する必要性
を用意しておく必要が発生する、ということである。すると、ネットでかじった意見はその意見を書いた人の見解に過ぎず、何故、その人がその意見を持ったのか、という「論拠」を明らかにする必要性が出て来る。よく言われる「1次ソースを当たれ」とはそういう意味である。ネットの意見に同意するのは構わない。ただ「論拠」となった事実や結論を元に、その人がその意見を書くに至った道筋(論理)をよく知っておけということだ。それがツッコミや反論に耐える文字通りの「論陣」を組ませてくれる。
ちなみにクロ現は「ホラ見ろ本読んでるヤツの方が論文まともだろ?」という論調を張りたかったらしいが、まずそれはウソである。書いたとおりネットだろうが本だろうがネタ元から組み立てるやる方は変わりない。これはご意見番に呼ばれた立花隆(蔵書20万)も見抜いたのだろう「ネットは知の宝庫で使い方次第だ」程度にとどめていた。この辺りはクロ現が「番組型論文」としては論拠が稚拙であったことを意味する。逆にパソコンとネットだけで論文書けとした方がネット組と本組とでアプローチの違いが見えて面白かったかも知れぬ。なお一般に入試・入社試験で課される小論文はその時アナタの脳みそにある情報のみが論拠となる。その点でネットはこのブログ自体そうだが「個人の意見」「結論」に集約されたもののみがゴロついている場合が多い。ネット遊びしてて面白いと思った物や興味持ったモノはゼヒ一次ソースを探して当たって欲しい。アナタなりの思いや結論、アナタの持つ別の見識と結びついたユニークな意見に結実するかも知れない。
人類の知の総体はそうして裾野を広げて行く。←かっこいいこと書いてみたつもり
最近のコメント