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2024年2月 2日 (金)

原作と映像化

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まぁ、とてつもなくひどい事件で、火の手はニトログリセリン突っ込まれてどんどん広がるばかりで。

根本的に小説(線で書いてあるので1次元)、マンガ(2次元)、ドラマ・アニメ(3次元)は、それぞれ得手不得手があるので、直接のメディア変換は難しい。画像なら一瞬で済むところを、文章は(読み手にとって)応じた時間を割いて説明する必要があるし、それも踏まえたリズム・テンポを持ったものを、リアルタイムで動画に変換すると間延びしたり、あるいは映像で一瞬の表現にした結果、見落とすなどということもあるかも知れない。応じて詳細化やデフォルメなど、ある程度の「改変」は許容されざるを得ない。

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ただその結果設定やプロットまで変わることについては、それこそ映画の歴史と同等の期間にわたり、延々と賛否が語られてきたのではないか。

日本で最も知名度のある「宮崎アニメ」だが、例えば「風の谷のナウシカ」は映画とマンガ製作が同時に進められ、映画はおおむねマンガの2巻目半分くらいまでの内容をトレースしている。ただ、クシャナの腕についてマンガにはその旨の言及はないし、一方でマンガ版のナウシカは念動(サイコキネシス)を駆使するシーンが出てくる。そも漫画は7巻構成なのでスートリーの相違は推して知るべしである。ただ、どっちも同じ人間が手がけているので批判の立ち入る隙は無い。

魔女宅は小説のビジュアル化なので、そもそも画像化されたキャラクターがオリジナルの存在となる。おおむね原作のエピソードを取り込んでいるが、ウルスラの手がけていた絵は現物(福祉学級の作品)だし、飛行船トラブル以降のエピソードが完全にアニメオリジナルなのはご存じの通り。波乱が無いから付け加えたと言われている。個人的には転調してCメロDメロに持って行く楽曲のようだ。宮崎らしい冒険活劇が顔を覗かせて個人的にはまーいーじゃんだが、角野さんは「お、おう」という感じだったようだ。ただ、波風は立っていない。なお原作はキキがもっと成長するところまで描かれている。

耳すま。「星の瞳のシルエット」大好きなので原作を持っている54歳男性だが、これはほぼ「キャラクタの名前だけは同一の別物」として良い。マンガ原作なのにキャラデザすら似てない(雫はあんなナヨっぽくない)。

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聖蹟桜ヶ丘と京王線が聖地にされているが、原作の舞台は栃木で、出てくる鉄道はどー見ても東武宇都宮線である。原作を知る人は映画見て「えーっ!」てなるし、映画から原作を手にした人もこれまた「えー!」になること請け合いである。ただ、これも原作柊さんがジブリ作品大好きなので波風が立つことはない。

幻魔大戦は少々複雑で、最初にこの名を持った作品は原作を平井和正、作画を石ノ森章太郎として1967年に登場した。ただ実態として二人が時にケンカしながらプロットを練っていったようである。これを平井和正自身が「リライト・ノベライズ」として始めたのが小説版幻魔大戦で、シリーズ全体で実に原稿用紙18000枚に及ぶ超大作になっている。ただ、小説版はマンガにおけるニューヨークでの超能力・超科学戦争まではトレースするものの、その後は主人公東丈の「僕は組織を作っていこうと思うんだ」の一言でサイコキネシスは影を潜める。そのくせ角川初のアニメ映画化されたわけだが、これも概ねマンガ版をトレースするも、当時駆け出しの原田知世にアテレコさせるべくオリジナルのキャラクターを出しているし、キャラデザも石ノ森キャラどころか後に「AKIRA」でカリスマとなる大友克彦による全くのオリジナルになっている。ストーリーも同じくニューヨーク以降はオリジナルのシナリオとなって、原作にあった「勢いとスケール」はスポイルされていると言わざるを得ない。なおこのアニメ版は原作両氏はほぼタッチしておらず、後に平井和正は「キャラデザがブスだ」と幻魔の後書きだったと思うが述懐している。

ちなみに作者が全面的に監修し、脚本も手がけたのが「ちびまる子」で、声優も本人判断で「原作通り」である。ただ、ご存じの通りさくらももこは虹の橋を渡ったので、現下アニメやマンガは気心の知れたスタッフによる、しかし言っちゃ悪いが「亡霊」である(原作にあった子供の毒がスポイルされてよい子マンガに成り下がっているので見てない)。

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こうして見てみると、近年の「鬼滅の刃」「薬屋のひとりごと」は、応じた端折りデフォルメ付け足しはあるものの、原作のテイストは守られている範疇であろう。メディアミックスとは本来上記各次元の相互乗り入れを誘導し、新たな発見を通じてより深く作品世界に没入する試みであるべきだと思う。「じぶんのかんがえるこのタイトルの作品のあるべき姿」を汚ぇケツの穴からひり出して見せつけるのは相容れないことは明らかで、誰も喜ばない自己満足以外の何物でも無い。

創作物は自分の子供であり分身である。それを「素材」呼ばわりされて好き勝手に改変されるのをお前自身は許容するのか。ということだ。

多少活字になったものを持つ身としてすこぶる胸くそ悪い。作者氏の冥福をお祈りする。

最上位の天使セラフィムは「愛と想像」の守護者なんだぜ。すなわち、想像の力は愛と同等。ないがしろにしたらどうなるかわかるね?

2023年12月 5日 (火)

作戦を了とす

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猫猫の歯抜け分を通販でポチッたのだが。

何と版元売り切れでキャンセルされてしまった。まぁ書籍はその形態上発注ごとに生産するのが非常に不向きと理解はするが、このネットワークオンデマンドの時代にそれでどんな勝算を描くのだろう。「売れねぇ~。本屋が潰れる~」って当たり前と言われて久しいが。

さておき無いならないで即作戦変更である。自分も妻も娘も、職場なり学校なりの近くにサッと行ける本屋はある。

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まずわし。行きがけに確保。

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そして残りは妻が確保。サッと揃うあたりさすが名古屋は大都会だぜw

蝟集作戦完了。解散。

2023年4月21日 (金)

うろちょろしてじたばたする

・義父の処方箋の受け取り
・整形外科でケツを揉まれて湿布をもらう
・取り置き雑誌の受け取り
・新しい鉄道模型のカタログ購入
・ポケGOのタスクを進める

外出から戻ってきた妻と交代で出撃。まず薬局に行って取りそろえに時間のかかる義父の処方箋を依頼し、その間にケツ揉み。終わると自分の処方箋を薬局に持ってって二人分もらう。

本屋に行って受け取り、ポケGO対応でわざと遠回りして模型屋に寄ってカタログを買う。

以上2時間。

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カタログ。こういうのは別にweb版があれば十分なのだが、「検索性」という点で一日の長があるのよ。「カタログのこの辺のページ」って奴がwebではできない。また、テキトーにページめくって適当な読み物になる。「調べる」だけなら手のひら端末で事足りるけどね。

ミッションコンプリート。

2022年5月16日 (月)

ハイファイとハイレゾとハイエンド

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この中で言及されている「数%のハイエンドユーザ」の「100%」が、これ読んで「ん?」と思うのではあるまいか。

色々中途半端に言及していて結局核心からずれてる(きっぱり)。

まずONKYO自体に関して言うと、直近のオーディオ業界のイノベーションである「ハイレゾ化」と、その前から長期トレンドとして見えていた「イヤホンオーディオ化」どっちも遅れた、というのが直接の原因。「ハイレゾ」は2014年のウォークマン対応で一気に火が付いた感があるが、その数年前から「ハイレゾ音源をネットでダウンロード販売」し始めたのが他ならぬONKYOだったりする(販売サイトe-onkyoは他の資本で継続)。しかし、フォーマットの拡大や聞き方の多様化に対応した「多機能高音質」な再生装置は結局出てこなかった。「DSD11.2MHz対応のUSB入力を備えたDSDディスクも再生可能なスーパーオーディオCDプレーヤ」や「ウォークマンにケンカを売れる大容量高音質のポータブルプレーヤ」も出てこなかった。音質で勝負するなら、音質重視派の嗜好を先取りし、少なくとも寄り添って追撃する必要があったが、不十分で遅かった。結果立ち位置を失った時点で詰んでいたと言える。

「ハイエンド」という言葉を使っているが、これは異議を唱える。「ハイエンドのユーザは数%」これは正しい。アキュフェーズのインタビューだと思ったが、ユーザは国内で「4桁」だという。「ハイエンド」要は高額高級機を言うが、オーディオの場合それは、家族が知ったらどちゃくそ怒られる金額のキカイ、と言える。上記アキュフェーズラックスマンなどが「ハイエンド」専業とするなら、キカイ1台30万円、ということになる。30万円のCDプレーヤ買う?家族に言える?数%というのはまぁそういうこと。でもってこれらメーカは別に赤字じゃない。

ONKYOはどちらかというと量販店で売ってる家族に怒られないキカイが主力で、「お父さんの趣味のオーディオ」として妥当だっただろう。ただ、そのセグメントはデノン(←日本コロムビアのオーディオキカイ部門)やヤマハなど「オーディオのメインストリーム」で、かつ、これら競合他社は「趣味」から「ハイエンドの入り口」まで手がけ、自社製品でステップアップして行けるようになっていた。ONKYOはそこを怠って、上昇志向派もイヤホン派も取りこぼした。ハイエンド入り口製品として昔使っていた「セプター」の名を冠したスピーカを2017年に投入したが、後塵を拝したどころの遅さじゃなかった。

で、このセグメントを表現する言葉は「ハイファイ」(High-Fidelity:高忠実度)で、あり、ハイエンドではない。「違和感」はここをゴッチャにしたか「ハイファイ」もハイエンドに捉えたか。ここは「質の良い音楽の流れる生活空間」を「頑張ってアルバイトor大人の資金力ならではのキカイ」で作って行くのが目的と言え、他でもない「昭和のオーディオ隆盛」の中心である。昭和にここに居た人は収入が上がってハイエンドに向かい、イヤホンオーディオの人はわざわざここへ入ってくる意義もなく、一番割を食ったところである。そしてONKYOはここにとどまって中途半端なキカイであった。宜なるかな。

「ハイレゾ」を「ハイエンド」と絡めたのは全くの誤謬である。ハイレゾは少なくもウォークマン、何ならスマホでも対応機種があり、ネット環境と「対応したDAコンバータ」があれば誰でも始められる。2万円弱でUSBにブスーで良く、コスト的にも手段、知識的にも障壁は低いのである。でもって音源自体はバキバキ高音質であるから、再生キカイをグレードアップして行くことで「ハイエンド」まで持って行ける。

オーディオがじり貧なのは、「音楽を聴く」という行為に対して、「ネットの無料動画をスマホでシャカシャカ鳴らしていれば充分」に終わっているからである。「カネ出して音楽を買うなら良い音で聞きたい」というモチベーションに繋がらない。一端は音質なんかどうでもいいクソみたいな音楽の氾濫であり、それがスマホで早聴きの手軽さとマッチングしたからに他ならない。
オーディオ機器の「使命」は「音楽のある空間」を創ることであろう。音楽を聴くだけならイヤホンで良いだろうが、一日中つけてるわけにいかないし、生活に必要な音が遮断される。鳥の声、風に吹かれた葉擦れの音、そして音楽がある空間。スピーカの存在し続ける余地がここにある。この際、心地よい(=不快な気分にならない)ためには楽曲の質と音質と、両方一定水準以上であるほうがよい。ギャーギャー言うだけの下手くそ集団を音割れする小さなスピーカで一日中聞きたいか。そういうことだ。ひっくり返すと、昨今のスマホから飛び出した「音楽を流す機能も付いたAI」は、スピーカそのものであり、再度、水準底上げに繋がる余地がある。良いものに慣れると悪い物はひどいのだw。

スピーカが単なる合成音声拡散装置に成り果てることのないよう。

 

2021年4月 4日 (日)

倍速視聴と説明セリフ

こんち語尾に「~わ」って喋る女は絶滅しとるのに頑なにそれを続けるアニメやドラマが気に食わない。無くても「女性」と判る語り口が出来るだろうが。

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と同レベルに違和感バキバキなのがはびこる「説明セリフ」である。要は設定や、提示された場面の背景をセリフとして喋らせる。わざとらしいしくどくてうっとうしい。プリキュアみたいな年齢層に応じた配慮なら判るがいい大人が見るものでまぁ。最たる物がCM入りの前を繰り返すって奴だ。視聴者はバカか。

そうすると「必要な情報は映像メディアであるにもかかわらず全部言語情報で得られる」とこうなる。それは視聴者が映像から読み取る能力を低下させると同時に(テレビを見るとバカになりました@昭和。然り、然り)、音声情報だけで全体を繋ぐというスタイルを生み出すことになる。画像の記事はそおゆう「セリフの聞きかじりだけで『見た』ことにする」時代のげに恐ろしき。理由はコンテンツ多過ぎじゃぁ…なのだが、まぁ視聴者育成失敗の分が大きかろう。本来質の低いコンテンツは淘汰されて「出てこない」べき(少数精鋭)なのだが、全部低くなった結果「凝縮」したくらいで充分なのばかりになってしまっている。ちなみに最悪は「ためしてガッテン」だと思っている。3分で済む話を大げさに膨らまして引きずり回し尺を稼いでいる。大抵、テーマだけでググると応じた論文が出てきて、ゲストの紹介が終わる前にこっちは結論を得ていたりする。なお21年度のNHKの予算は7000億円だそうな。3分を30分に引き延ばすのは番組を作るとは言わない。作業の結果を電波電力と税金まがいの受信料使って押しつける作業である。

ロードショー番組が減少傾向だが、映画は大画面と2時間という長さ、映画館=ザッピング不可という枠の中で作っているので、視聴覚+時間の全てを有意義に使って物語る。それを身体全体使って理解し己が記憶として行くことが快感なのだが、それは見る側もそおゆう能力を醸成されている必要があるので、スマホチラチラ見ながらセリフだけ拾っていくという「コンテンツの消費」世代には「長すぎて退屈」という印象もたれる可能性の方が高いのではあるまいか。悪貨は良貨を駆逐するというが、手のひらでサクッとと、真逆にあるそおゆう物は応じた駆逐の対象となる可能性が高かろう。2時間没入するより30分で10編のコンテンツをサラッと知りたい、のである。サビだけ知ってりゃ話題について行ける量産型アイドル楽曲と同じ。でもそうしてしまったのはクリエイター側自身。

少なくも、密度を上げる必要があるんじゃないですかね。そういうの「めんどくさい」って言われる時代に成り果ててるかも知れないけど。

…するってぇと「最短凝縮型コンテンツ」=俳句と短歌の時代か。

 

 

2015年1月18日 (日)

荒野の言霊使い、平井和正。天使の元へ旅立つ

自分が「文章書き」を趣味とするきっかけになったのは小学校6年の時である。学芸会でオリジナル脚本の劇を出そうという話になり、何か知らんが色々思いついた。以降創作して形にするという作業が面白くなり、「小説を書いてクラスに回覧する」というのもやった。そして中学2年で担任から「これ読んでみたら?」と勧められたのが平井和正「幻魔大戦」である。

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超能力アクションの体を取っていた。念動力=スプーン曲げ程度の認識しか無かった男の子には、用いて空を飛び、地球外生命体と戦う。そしてテーマは聖書の黙示録に出て来る天と魔との最後の戦いハルマゲドン…

鳥肌が立った。ただ、ご存じの方も多いと思うが、途中から当初の石ノ森章太郎との共著漫画のノベライズ、ではなく、主人公たる超念動者・東丈(あずまじょう)が立ち上げた啓蒙団体「GENKEN」を主体とした話に変わって行く。聖書の知識が必要で中学生には理解に重く、一旦離れる。その間、ウルフガイ(狼男)シリーズに手を出す。

不死身の狼男が展開する激しいアクション、暴力、どすけべぇ(笑)。虜になった。「ここまで臨場感を伴い面白く感じさせることが文章で可能なのか」それは感嘆を通り越し、いろいろと自分の固定観念にゲシュタルト崩壊を起こしたし、何より自分自身の文章の書き方が変わった。小説は書くくせに課題の作文は原稿用紙1枚埋めるのに七転八倒…だったのが、非・自発的文章でも勝手にフレーズが沸いてくるようになった。創作おもしれぇに作文おもしれぇが重畳されたのだ。高校の入学課題で夏目漱石「こころ」の感想文を出せ、というのが出たのだが、原稿用紙10枚あっさり書いた。以降、何だかんだ書いていて、このブログだし小説はこっちである。

そしてこの2015年1月18日深夜2時。何故か起きていて氏の訃報に接した。トランキライザーを囓るかの如く服用し、文字通り身を削って書いていたのは知っていたが、近年は病床にあったようだ。

言霊…文字に文章に宿る魂のことで、それは創出された文章における主体、その文章の魂そのものと言って良いが、氏は「創作は言霊を召喚すること」と公言されていた。巫女の託宣そのものである。もってして、自他共に認める「荒野の言霊使い」であった。一般に作文はあらすじを「考えて」そこに肉付けして行く、少なくとも教科書にはそう書かれているが、そうではなく、思い浮かぶままに書いて行けば自ずと完結するし形になる。作品の魂がそうさせてくれるから、というのである。オカルトそのものの物言いだが、例えば原稿用紙1万8千枚に達する「幻魔大戦」シリーズにあらすじ(プロット)を立てられるか?

「それは嘘。創造や創作は経験の凝縮、記憶されたパーツの再構成」

それも一見同じようなアウトプット作業を生み出す。だがアウトプットに発明や新たな概念そのものが現出するのはどうなのだろう。ってか、小説でそれやったら部分剽窃の集合体になっちまう(オレの物語が影響受けてないことは否定せんよ。基本的に超能力アクションやし)。

心理学では「創造的思考」を経験と模索の結果で説明しており、万策が尽きて解決手段があれば「論理的飛躍」を持って啓示を受ける、としてある。ベンゼンの化学的構造がリングでした、等を例に引いている。

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しかし、全部、「それ」か?

言霊の宿った創作物は自ら意思を持ち、作者によって文字に込められた意図を達成すべく事態を動かすという。これは他ならぬ短歌における日本古来の言霊の解釈である。これは短歌を「一首二首」(首=頭=考える主体=魂の首座)と呼ぶことと調和しているように思える。平井和正で「言霊」という言葉を知り、一昨年に「首を突っ込んでみた」短歌でまた言霊に触れるなど、それこそ言霊の導きとしか言いようが無い。って何を言ってるんだこの電気技術職44歳は。

自分の創作もほぼ勝手に出て来る状態だが、これが「言霊」と言って良いのかどうか分からぬ。ただ、そうであれば任せておけば良いので、出て来るままに書いて載せてある。才能の有無とか商業化できるとかそういう次元ではなく、創作物にまとめておきたいという根源的な思いがあり、紡ぎ出すエンジンが出来ているのでお任せ、という状態。いわば創作原理主義で、作文システムだけこのブログや会社の論文書きに使っているw。ちなみに短歌はというと、現状託宣系とロジカル思考系の双方存在する。どっちかに収束する感じではなく、一瞬の物語は前者に、皮肉やパロディなどは後者で「生産」されるであろうという概略が見えてきている。

どんな創作物が面白いと感じるか、および、文章の書き方を軸とする生き方そのものに一定のベクトルを与え、根幹となる柱を形成していたのが、自分にとっての「平井和正」という存在と言って良い。天へ召されたのは残念だが、確固たる何かは自分なりに持ったので、悲しいとか気力を無くしたとか、そういう感慨はない。

だから、ご冥福とか、RIPとか、そうした言葉で氏を送りたくはない。うんそう、自分が言葉にするなら。

ありがとうございました。

2011年11月25日 (金)

子どもに説明できない本

丸善などという硬派の極北みたいな本屋で。
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Baka
こんな本を買ってしまった。
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「理科年表は?」
「28日の入荷になります」
(´・ω・`)
さておき、天文年鑑買う奴が最初に見るのは5月21日だろう。
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金環日食(詳しくは画像をクリック)
こんなもんが東京・名古屋・大阪を含む太平洋側の広い地域で見られるのだ。
そしてこれぞ丸善「機械工学便覧」(ガンマ6・交通編)
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クルマ・鉄道・船・ヒコーキ、数式とグラフが付いてる。そういう類。一個欲しかった。まぁこと鉄道系に関する限り、古い版の方が詳しいんだけどね。線路のカントの取り方とかね。どうでもいいですけどね。
 
しかしまぁ11月も終わりか。

2011年11月 6日 (日)

いろいろメンテナンスの日

2日は講師で立ちっぱ。
3日は趣味で乗りっぱ。
4日は会議で座りっぱ。
 
Q:仲間はずれはどれ?
 
てなわけで今日はとりあえず昼まで寝る。起きて妻子は昼ご飯。オレは朝昼ご飯。
 
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次は線路(笑)C317のカントレールが出たので仕込んでみる。耳を折り取ってバリをカッターで削る。
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ひみつコーナーにも同じく仕込む。ここは普段段ボールの陰で見える場所ではない。見えなくてもこだわるのが趣味。
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電車。211の室内灯を微調整。昔から積んでいるがLEDに変えて集電系を磨きだし。
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綺麗綺麗。ただ現物の211サロはここまであからさまに色着いて無いけどね。
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妙にたたずまいが良かったので1枚。
 
A:2日。新幹線に乗ってないから←待て

2010年5月 7日 (金)

書物はデータかそれとも紙か

とりあえず「夕刊」を切った。
新聞記事でどうあがいても他の媒体で補えないのは4コマ漫画と広告くらいだからだ。報道ならむしろネットのほうが早い。社説などオピニオン的な内容は確かに各新聞社独自だが、バイアスの掛かった「論調」よりも、羅列された単なる事実の方が自分自身考える余地があるというものだ。天声人語が試験問題に重用されたのは遠い昭和の話(皮肉だよアサヒさん)。

お話を書いてる身としては「本」という媒体はひとつのゴールの形態ではある。
だが媒体として必然か?と考えるとバキバキ言うほど首を傾げることになる。

「本」は「本」でしかない。
「データ」は手持ちのデバイスが媒体になる。
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「ラブプラス」ばかり並べているが、全部デバイスが違うことに注意願いたい(例によってクリックで当該記事にジャンプ)。
ユビキタス」というコトバは死語なのか定着して意識されなくなったのかどっちかワカランが、書物の電子化はすなわちユビキタス化に他ならない。「見てもらう」立場としても「見る」立場としても、これはありがたい。デバイスを拘束しない、拘束されない。お好きなモノでどうぞ。
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メリットばかり書いてる気がするが、デメリットはなんだろう。やはり「実体がない」ということだろうか。目には見えるが触れない。

「お前音楽はCD派言うとるやん」

その通り。ただそれはフルビットでDL出来ないから。「オレが買った」と自己認識できる確たるものが残らないから。
そして「ユビキタス」じゃないから。
配信音楽データを、ホームオーディオ、カーオーディオ、ヘッドホンステレオ…ハイクオリティな「源流」のまま持ち歩けるか、取り出せるか。「否」だろう。
ネット上にあってライセンスを購入すれば無限にアクセスできる…それが出来ないから、代わりが「媒体を買い、持ち歩く或いはデバイスにコピーする」状態だ。最も、無限アクセスは実は特定ジャンルのラジオ局とか有線放送にオンデマンド化の要素を加えただけであって、先祖返りなのかも知れないが。

そう。音楽配信の現状は「中途半端」なのかも知れない。

戻って。
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買っても(創作しても)実体のない書物に「オレが買った」自己認識を要求しないのは何故だろう?同じデータでも、音楽は見えないが書物は見える。「実体」はないが「不可視」でもない。それはあるかも知れない。

「保有欲」(コレクション性)への訴求力も異なる。音楽の場合、「質」が再生デバイスに依存する。文書は何で読んでも一緒(画質、という尺度はあるが、文章のみなら無関係。ラブプラスもキャラとの付き合い方が変わるわけではない)。この状態で音楽には「原盤」という価値観が発生する。またその原盤は媒体しか入手方法が存在しない。
 
持っているに越したことはない vs. 持ってなくても変わらない。
 
ちなみに、音楽で原盤に価値観を見出さないなら、その時点で文書と同一の存在になることは言うまでもない。「聞けりゃいい」なら「読めりゃいい」と一緒だ。オレは多分、その点で音楽と書物に差を見いだしているのだろう。音楽はデバイスから取り出された時点で音波となり意味を持つが、文書は脳内で画像に起こされて初めて意味を持つ。逆に言うと文書は「脳内変換」でどうにでも変わるものであり、「質」の介在する余地はない。
 
結論:紙である必然性はない。電子化を否定する必要はない。

しかし引き合いに出したラブプラス。「彼女」たちはどんなに「一緒に」いられても、決して抱きしめたりちゅっちゅしたり出来ないんだぞ。
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2008年9月15日 (月)

決断

際しては、まず弟と協議を持った。

「これで20だ」

「そうなるか。長いな」

「否定するつもりはないのだ。ただ、ネットの進展は速報性とワールドワイド対象という観点で、我々にとって相対的な存在意義に疑問を投げかけている気がしてならない」

「だな。20でキリもイイし、潮時ではないか?」

「では、異議はないな」

「ああ、俺たちも歳を取った」

「俺たちの感性に対する一側面の育成において、この存在は重要な位置を占めているとは思うのだ。しかしだ」

「そうだな。今後は郷愁を得た時に探す程度でよいだろう」

「では、これを持って最後とする」

「うむ。了解した」

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さらばだ。VOW。
バカは真剣にやる。下らないのも徹底すれば心を動かすというのはここから学んだ。少しの後悔と、下半身のざわつき。そして今後もヘンなモノの多からんことを。日本一バカな本に幸あれ。

※タスクさんに古矢さん。こんだけ持ってますんで、まぁ許してちょ。

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