【妖精エウリーの小さなお話】すて犬物語
私の名はエウリディケ。背中に翅持つ人間型生命体。
その使命、動物や虫たちの相談相手。
それは、ある暑い夏の日の、午後の出来事。
私は、犬を見た。
人家を離れた山の中腹、急斜面の森の中。
彼は、ちょっとした崖の上から、小さな川の流れる岩場の中へ、落ちようとしていた。
私は声を掛けながら、彼の元へと飛翔した。
足を踏み外す彼を抱え、そのまま平らな岩の上へ。
彼は一見して健康を害していると判った。
ひどい臭い。乱れて汚れた毛並み。そしてやせ細った身体。
骨折を放置したため変形した足。
ぼろぼろの首輪。
それは、長い時間何も食べず、この山野を彷徨い歩いていた証。
なぜ?
私は気付いた。
彼の瞳に光がない。
私の問いに彼が口を開く。飼い主はそれを知り、自分を遺棄したのだと。
ただ、自分をそれまで食べさせてくれたと。遺棄はしたけど殺しはしなかったと。
それが、飼い主の優しさなのだと、彼は語った。
私にはそうは思えなかった。彼の栄養状態は劣悪だった。
なぜ彼が視力を失ったか。私には判ったけれど、可哀想でここには書けない。
私は彼に大豆ハンバーグをあげた。川の水で身体を洗い、ブラッシングした。
そして首輪を切り、捨てた。
白い犬がそこにいた。ただ…、ううん、書かない。
私は、彼と行動を共にしようと言った。彼は逡巡の後、首肯した。
それから、私たちは共に森を歩き、動物たちの声を聞き、虫たちの悩みに答えた。
動物たちは一様に彼の境遇に同情し、飼い主を、人間を批判した。
彼は反論はしなかった。だけど、それでも自分は幸せなのだ、とだけ言った。
なぜなら、食べるには困らなかったから。
夏が終わった。
タヌキの家族と出会った。
子どもがいて、すくすくと育っているようだった。
父タヌキは、彼に自分たちと一緒に生きないかと提案した。
彼は拒絶した。人と共に生きた自分では迷惑がかかるからだ、と彼は言った。
理解できないとタヌキは言った。食事の供給はじめ、好条件を提示した。
しかし彼は固辞した。頑なな彼にタヌキは去った。
メスの熊がいた。
冬を前にエサを探していた。しかし中々集まらないようで、彼女はいらだっていた。
そのせいか、彼と私に当たった。
野生であるなら命はないよ。彼女は彼に言い放った。
自分で生きる力が無ければ、それはすなわち命の終わり。
野生の掟。
私は彼女に木の実を分けた。
彼女は、私が彼といることに対して、苦言を呈して去った。
不公平なひいきだと思う者もいるよ、と。
それを彼はとても気にした。自分の存在が私には迷惑なのだと言い始めた。
そんなことはないと私は否定した。
タヌキも提案したように、イヌ科は傷ついた仲間を群れで養う。
私は言った。私とあなたは群れなのだ。
彼は瞠目した。光はない。しかし、彼はたしかに見開かれた瞳を私に向けた。
その晩、彼は遠吠えをした。
山間に向け、朗々と声を放った。
まるで、遺伝子に刻まれた野生が目覚めようだった。
遠く近く、仲間たちの声が返った。彼は喜んでいるようだった。
翌日、私たちは高地の草原へ出た。
ここなら行く手を遮るものはない。存分に走っていいよと私は言った。
でも、彼は走ることを拒否した。
ただ、風の中に座り、白い毛をその風になびかせ、遠く連なる山並みへ顔を向けていた。
遙かな声を聞いているようだった。
その姿は飼い犬ではなかった。その始祖…そう確かに座する狼の姿だった。
そんな彼を見つめる私の背後。
まだですかと問う者があった。
ネズミであり、シデムシであった。
私はその意味するところを判っていた。たとえ彼らが出てこなくても判っていた。
答えは時が用意していた。
私は何も言わず、再び彼と歩き出した。
季節が巡った。
彼に戻ったわずかな野生の輝きは、何かの合図であったのかも知れない。
間もなく、彼は食事を残すようになった。
動く速度が遅くなり、動ける距離が短くなり、体重が目に見えて減り始めた。
そして、彼は動けなくなった。
私は彼を木の虚へ運んだ。そこで寝泊まりし、辺りを回った。
近づく冬の気配に動物たちは忙しかった。
私はリスやヤマネの木の実探しを手伝い、チョウがサナギになるのを見守った。
彼は鳥たちと語っていた。
しかし、そんな鳥たちも、長く彼の元にはいなかった。
南へ去り、人里へと移動した。
木の葉が茶色くなり、散り始める。
吐く息が白い。
夜が来た。
冷たい雨が降り出していた。
私は彼の傍らに腰を下ろし、彼の背中をさすっていた。
彼は口を開き、行動を共にした理由を尋ねた。
群れとして、仲間として、あなたを必要と感じたからだ、と私は答えた。
そうですか、と彼は言った。
私も一つ、彼に訊きたいことがあった。
でも、訊かなかった。
その直後。
私は天の狼と呼ばれる星へ向かい、冬の夜空を駆け上る、白く大きな犬を見た。
手のひらに感じる、鼓動が途絶えた。
私の名はエウリディケ。背中に翅持つ人間型生命体。
その使命、動物や虫たちの相談相手。
私は、彼が崖から落ちるのを、黙って見ていることができなかった。
すて犬物語/終
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