【妖精エウリーの小さなお話】狼
明治期に絶滅した、と調べればすぐに答えが出て来ます。
ニホンオオカミ。
家畜を狙うので駆除の対象とされ、報奨金が付いた。その結果、最後の一頭まで撃ち殺された。それが定説になっています。
その一方で“生き残っている”と主張する人たちもたくさんいます。確かに人跡未踏、とまでは言わないまでも、それに近い深山幽谷が日本にはまだまだ残っており、そこで人目を避けてひっそりと暮らしている、というわけです。
そんな状況ですから、私が彼らと出会ったのはただの一度きり。
なお、内容の性質上、場所や時期をここに書くことは出来ないことをお断りいたします。
ただ、夏から秋へ移る頃、時間は昼下がり、とだけは書いておきましょうか。
〈人間の飼い犬にしては、ここはちょっと場所的に変だね〉
そんな意識を捉えた時、私がいたのは梢の上。
ニホンザルたちと話をしていました。と、書くと、サルと会話なんてと訝る方もあるかもしれません。確かに、人間さんでそういう能力を持つ方は極めて稀です。
しかし私たちには必須の能力です。なぜなら、私たち種族の使命として、昆虫や動物達の相談相手、というのがあるからです。
妖精。そう書けば多くの方々は一定のイメージをお持ち頂けるでしょう。外見は人間さんとよく似ていますが、翅を持ち、手のひらサイズ。多く女性の姿を取る。私もそうです。ただ私の場合、体のサイズを手のひらサイズと、人間さんと同一サイズと、自由に変えられます。これは元来手のひらサイズであるケルトのフェアリーと、人間さんと同一サイズであったギリシャのニンフとが混交を経た結果。
〈あんたの出番じゃないのかね。妖精さん〉
ボスザル“ロゴ”が言いました。
木の下では子ザルたちが遊んでおり、その子イヌに似た動物にちょっかいを出したくて仕方がない様子。
子イヌに似た動物は恐怖と不安の気持ちでいっぱい。
でも、イヌじゃない。
「じゃぁ、ちょっと」
〈ああ〉
ロゴが地上の子ザルたちに行動を制す声を出します。私は梢からひょいと飛び降ります。
翅を広げて、子イヌに似た動物の前に着地。この間に身体のサイズは人間さん並み。
「どうしたの?」
私は声を掛け、そして気付きました。
彼(オスです)がイヌに似ているがイヌでないことを。
オオカミ。
私がそういう認識に達したと知るや、上方のサルたちが慌てて梢の更に上方へと逃げて行きます。近くに親がいるのでは、というわけです。耳に痛いほどの警戒の鳴き声。
大丈夫だから…私はサルたちに意思表示をし、その場にしゃがみ込みます。
「おいで。迷子なんだね」
しかしオオカミの子は震えながら私の目を見るだけ。
異常なまでの恐怖を覚えています。私はその子の心を、備わった能力であり、動物達との会話を可能とした能力であるテレパシーでそっと見てみます。
悲しい記憶がその心にはありました。両親を撃ち殺されているのです。
両親は人間さんの接近を知り、この子を草むらに隠した上で、人間さんに立ち向かいました。
しかし銃が相手ではなすすべ無く。
「私は人間じゃないから」
私は言いました。オオカミの子はハッと気付いたように私を見ました。
〈そういえば…〉
判ったようです。トコトコと歩いてきます。
私はこの子が事件の後、同じ群れの別のオスによって引き取られ、そこで暮らしていたものの、狩りの最中に再び人間に出くわして怖くなって逃げ出し、そのまま迷子になってしまったと知ります。
ニオイで帰れそうな気もしますが、川に落ちて流されたとのこと。
「ちょっと行ってくるよ」
私は樹上のサルたちに言いました。
〈ああ、我々はいつでも構わないから〉
ロゴが答えます。私はオオカミの子を抱き上げ、木の虚へ入ります。空腹らしいので手品の手法で取り出す大豆ハンバーグ。
必死にパクつく間、私は外へ出て耳を澄ませます。
次いで超常感覚。聴覚と心と、両方の知覚を使って。
呼ぶ声はないか、探す心はないか。
皆無。距離があるということでしょうか。
でも、それをオオカミの子に知らせる気は起こりません。
木の虚に戻ります。オオカミの子はすっかり食べ終わり、しっぽを振って私を迎えてくれました。
こうなるとこの子の記憶が頼り。
「ちょっといいかな?」
私は言って、額でオオカミの子の額に触れます。そう、ちょうど発熱の有無を確かめるように。
見えてきました。記憶は断片の集合体であり、連続ではありません。
遡ってみます。私、サルへの恐怖。長い上り坂。その前にヘビが怖くてちょっと長い距離を走ったようです。
別の木の虚。寒さと濡れた身体への不快。太陽を右に見ての上陸。太陽の高度からして昼前のようです。つまり川の流れは東から西。
この辺の主河川は南北方向に流れています。従ってそこへ流れ込む支流のひとつと推察できます。該当する支流は幾つもありますが、この子の記憶によれば途中流れが速く、岸に上がる直前に緩やかになっています。更にもう一つのヒントとして、そのヘビがどうやらヤマカガシであるらしいと判ります。
ヤマカガシはカエルを専門に狙うヘビです。この辺りにカエルが好む池等はなく、カジカガエルが一部に棲む程度。逆に言えばその限られた場所を彼は通った。
…絞り込めました。
その子を抱いて背中の翅で飛翔します。目指すは尾根3つ向こう、わき水を源流とする岩場の清流。
後はどこから流されたか、の問題。しかしそこまでは私の能力では判りません。むしろ彼の嗅覚に頼った方が良い。
流れを逆にたどり、上流へ向かいます。翅を縮めて倒木をくぐり、逆に伸ばして岩場を、滝を飛び、足場を捜してあっちの岸辺こっちの岸辺。
そんなことを2時間もしたでしょうか。
彼の嗅覚と、私の感覚が、同時に気付きました。
人間と火薬の匂い。
待ち伏せ。人間さんの狩猟です。
「仙女じゃっ!食えば不老不死だ!」
「仙女がヤマイヌの子を連れてるぞっ!」
すかさず上がった声に、私は彼を抱きます。
一瞬たりとも止まることは許されません。走り出し、背中の翅を伸展し。
ここで発砲。しかし背中の翅が既に私たちをその場から舞い上がらせています。流れの両岸から覆い被さる梢。その間を、身体を回転させながら通過します。通過しながら、首から下がるペンダントの金のチェーンを引き上げる。
後は、このチェーンの先にある青い石を手にして、呪文を唱えれば。
その時。
信じられない代物が私の視界に広がり、そして私の身体を拘束しました。
カスミ網。要するに野鳥を捕らえるために使われるネットのことです。非常に多くの鳥が捕まるため、密猟防止の観点から、1990年代以降禁止されています。
その網に私は自らの翅で引っかかった。
しかも。
銃弾が右の翅を撃ち抜きます。
私の翅は伸縮自在。その仕組みは血液の透明成分…漿液の出入りによります。
つまり、翅を傷つけられるのは事態としては最悪。不死身といって良い妖精族ですが、傷つけられて平気なわけではありません。
力が抜けて行きます。視界がぼやけてきます。
〈僕を離して身体を小さくすれば…〉
そんなこと…できますか…。
火縄銃を抱え、蓑をかぶり、肌にカモフラージュの泥を塗った男達が4人ほど、ニヤニヤと白い歯を見せながら近づいてきます。
その時。
大地の神がと表してもあながち間違いでない、突き抜けるような咆哮が一帯に谺しました。
男達の顔から一瞬で笑みが消えます。
〈とうさん…〉
白銀の稲妻の如きものが、私たちの視界を横切りました。
男の悲鳴がし、顔を押さえて後方へ倒れて行きます。
強い力がカスミ網に掛かり、私たちは地上へと落ちます。
雄々しく大地に立錐する白銀の主を私は見ました。
怒りに震え、低く唸る雄の狼。…彼の義父です。
父狼が跳躍します。夜通し山野を疾駆する脚の俊敏さは人の及ぶものでなく。
獲物の首に食らいつき、短時間で息の根を止める顎の力は人腕の比ではなく。
怒りのままに猛る彼を、本当は、本当は私は止めなくてはいけない立場。
しかし極度の貧血に等しく、身体が動かない。
〈これを〉
子狼が言い、口にくわえていたものを、投げ出された私の手のひらに置きます。
それは父狼の戦闘の間に、私の首から引っ張り出したペンダント。その深い海色に輝く石を、私はどうにか手の中に収めます。
そこで男の一人が火縄銃の準備を整えます。
「リクラ・ラクラ・テレポータ」
私は銃を構えた男の背後に瞬間移動し、銃を取り上げ、流れへ捨てました。
でもそれが精一杯。もう、立っていられません。
「とうちゃん!」(そういう意味の吠え声)
子狼が叫び、男が私の方を振り返り、その背後から父狼が宙高く舞い上がる姿まで、私は確認しました。
目覚めると、朽ちかけた古い祠の下で朝を迎えていました。身体が縮んで手のひらサイズですので、恐らく失神したのでしょう。
縮んでしわくちゃの右の翅が濡れています。水滴の跡が谷底へ向かって点々と続いています。
ああ、と私は合点が行きます。その流れはミネラル分を豊富に含みます。飲めば身体に良く、いわゆる“養老伝説”に出てくるのもこの種の水です。
狼の父子は私をこの祠に運び、傷ついた翅に夜通し、その水を運んで掛けてくれていたわけです。父子の姿はもうありませんが、父子が無事であった証拠。
立ち上がります。翅は暫く使えませんが、行動できないわけではない。
私は祠に、狼たちの代わりに礼を述べようとし、ハッと気付きました。
祀られているのはイヌカミ。すなわちこの祠は、山野の食物連鎖の頂点に立つ犬神…狼…大神に対し、その獲物の一部を人間が頂戴することについて、許可の願いと感謝を込めた、いにしえの聖所。
狼/終
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