小説

2025年3月22日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -047-

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 朝倉が横須賀の存在に気付き、理絵子と交互に見る。気がつくと訪問者ありという状況に対する困惑は感じるが、意識精神は安らかに落ち着いている。
「ごめんなさい。お手数を掛けまして……昨晩遅くから意識がなかったようです」
 謝る朝倉に横須賀がペットボトルのお茶と、総菜パンを勧める。朝倉は上半身を起こし、お茶を口にした。
 肩を動かして安堵の吐息。
「夢を見てたの」
 朝倉は真正面、重なった衣装ケースの方を見ながらつぶやく。
 それこそ夢から覚めた少女のように。
「怖い夢。でも不思議ね。黒野さん、あなたが救い出してくれた。どうやってかは覚えてないけどあれは確かにあなた」
 朝倉は言って沈黙した。
 目は開いたまま。記憶の断片でも追っているのだろうか。
 横須賀も女性であり、朝倉が何か思考に埋没しているとすぐに判ったようである。特段問うでなく、朝倉の反応を待つ。
「予感がするの」
 少し経って、朝倉は唐突に言った。
「それは、どんな、ですか」
 理絵子は問いかける。ゆっくりと。
 それこそ予感がする。核心が担任朝倉の重い口を開いて出てくる。
「あなたなら、黒野さんなら、大丈夫」
 朝倉は言った。
「そう思われる前は?」
「あの子と……二宮あゆみと似た娘を見ると、私は彼女のことを思い出してしまう。……ただ、普通はそのまま卒業。でも、中にはやはり感づく子がいてね、親切に気にしないでと言ってくれた。だけど……そういう子に訳を話すと、どうしても気になるらしいのね。行くのよ。あそこに。そうすると」
「そして伝説が繰り返される」
 理絵子の指摘に、朝倉は頷いた。

(つづく)

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2025年3月15日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -046-

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「先生大丈夫、私です。黒野です」
「くろのさん……」
 理絵子に目を向ける。まるで親に出会えた迷子の幼女である。担任は見る間に穏和な表情になり、人形の空気が抜ける様に弛緩し、再び眠りに落ちていった。
 横須賀が大きなビニールを抱えて戻ってきた。
「教頭先生には問題ないと電話しておいた。まだやすんでらっしゃる?」
「ええ」
 理絵子は着替えとして差し出されたジャージの上下に手早く着替えた。赤紫色で白線三本、特価980円。値段相応にダサいしダブダブだが、選り好みはできない。セーラーは学校へ着て行ける状態ではない。
 ジャージの入っていたビニールにセーラーを押し込み、横須賀の買ってきたペットボトルのお茶を手にする。
「朝倉先生の発作っていつからかご存じですか?」
「私が転任してきて最初の職員会議」
 横須賀は即答した。
「ショッキングな出来事だったからよく覚えてる。4階に監視カメラをつけようかどうしようかという話でね。突然立ち上がって、まるで亡霊から逃げるみたいに『やめて、来ないで』って。爪で顔を掻きむしって血が出たわ……」
 理絵子はそこで横須賀を制した。
 担任が目を覚ますと判ったからだ。
 静かな朝の目覚めさながらに、担任がまぶたを開けた。時たま父親が大音響で鳴らしているベートーベンの「田園」だ。
「お加減いかがですか、先生」
 理絵子は担任の顔を覗き込み、横須賀の顔が見えないようにして、努めて柔らかい口調で言った。
「黒野さん……さっきはありがとう。助けてくれて……」
「え?朝倉先生覚えてい……」
 言いかける横須賀を理絵子は後ろ手で制する。朝倉は“夢の中の助けに現れた黒野理絵子”と目の前の理絵子がごっちゃになっているのだ。
「横須賀先生とご様子を伺いに参りました。学校にお見えにならないので」
 理絵子は言ってから、ゆっくり朝倉の眼前から顔を引っ込めた。

(つづく)

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2025年3月12日 (水)

【魔法少女レムリアシリーズ】14歳の密かな欲望 -06-

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 翌日。
 初夏の兆しも見えて日射しの強い日。
 家庭訪問週間は、授業は午前打ち切りとなり、午後に教員が駆けずり回る。
“今日巡る家庭では最も学校に近い”ということで、最後になった姫子の居所に、担任奈良井は予定より30分遅れて現れた。
 呼び鈴が押される5秒前に玄関ドアを開けると、奈良井は驚いたように往来から顔を上げた。少し疲れているように見え、そして暑いのだろう、脱いだカーディガンを小脇に抱えている。迎える姫子は水色の半袖ワンピース。
「ごめんね、遅れちゃって」
「いいえ。順調に遅れるから焦るなと、叔母……ですが母と呼んでおります。母から聞いてましたので。どうぞ」
 姫子は話しながら玄関前の4段を降り、門扉を開けて奈良井を招き入れた。5~6軒ずつ7日に分けてと聞いている。先に終わった友人達からしんどかった、という話は聞いていたので、日々しんどい×5の担任の負担は相当なものであろう。
 玄関には相原香が迎えに出てきた。
「遅れまして申し訳ありません。担任の奈良井と申します」
「いいえお疲れ様です。姫子の叔母に当たります相原香です。どうぞお上がりください」
 相原香は玄関マットにスリッパを並べる。玄関から廊下を真っ直ぐ突き当たるとリビングであり、その扉は閉じられ、比して途中左手の襖が開かれているのが客間である。
 その客間から、廊下を挟んで向かい側、2階に向かう階段途中から見ている三毛猫。
 尻尾を緩く左右に振っている。一般に猫が尻尾を動かしているのは苛立っている証左とされるが。
「あら、猫ちゃん」
「何?お水?」
 靴を脱ぐ奈良井の背後から姫子が声を掛けると、猫は素早く階段を駆け上がって姿を消した。
「逃げられちゃった」
「嫌ってるわけじゃないと思います。お茶をお出ししたいのですが、温かい緑茶、冷たいウーロン茶、どちらがお好みですか?」
「……規則でご遠慮、と言いたいけど、正直に温かいお茶を下さい。あちこちで冷たいの出していただいてお腹が冷えそう」
 苦笑する奈良井に姫子は笑顔で応じた。

(つづく)

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2025年3月 8日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -045-

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 その時、あろうことか、彼はあゆみちゃんを伴っていた。ターゲットとその手段は当然。その結果……。
「彼は私を守ろうとして刺してしまった。彼が悪いんじゃない。のこのこついて行った私が悪い」
 担任は髪を振り乱し、責任を自己に帰そうとするあゆみちゃんを表現した。
 その後担任はあゆみちゃん、岩村少年、岩村少年の家族を交えて、善後策を協議しようとしたようである。
 だがそこで担任の記憶の演劇は進まなくなる。麻酔でも打たれたように、台詞が紡がれなくなり。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が……すべては私が……」
 一瞬の空白の後、担任はそう言ってぼろぼろ泣いていた。しゃがみ込んだ目の前には……あえて書こう、校舎前アスファルトの上、どぎついほど鮮烈に赤い、そして花びらのように広がる、血の海に横たわる少女。
 後頭部より落下したらしく、耳朶がアスファルトに接触している。すなわち、耳朶より後方の頭部は挫滅した状態。当然、血の海の中には脳と思われる灰白色の組織塊が幾つか確認できる。瞳は見開かれたままで、その拡大状態の瞳孔の奥は闇が支配している。水晶体に映る担任の姿を、感情無く見つめ返しているかのようだ。血液が失われて真っ白になった顔と相まって、変な表現だが、リアルすぎる人形のように生々しい。
「あの時……私が……しなければ……しさえしなければこんなことには……ごめんなさい。ごめんなさい……」
 担任は泣き、叫び、苦悶の表情で自分の手指の爪を立て、自らの顔を掴もうとした。
 放っておけば再度“発作”に進行し、自傷行為になり、ネグリジェならぬ自分の身体を引き裂くことになろう。真相は“一瞬の空白”にあるのだろうが限界である。理絵子は担任の額に手を当てた。

(つづく)

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2025年3月 1日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -044-

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 こういうのは、自分で納得して口にしないと、副作用の方が大きい。
「先生、先生の抱えてらっしゃること、お話しいただけませんか?」
 理絵子は寝ている担任に話しかけた。
 その髪を、頬を、優しく、撫でながら。
「誰にも言いません。私たちだけの秘密です。学校も知りません。彼女と、最初に出会ったのは、いつだったんですか?」
 理絵子の問いに応じるように、担任の口から吐息が漏れる。
 理絵子は、担任の手を、そっと握る。
「……先生、岩村君のことなんだけど」
 担任は少女のトーンで、まるで劇の脚本を読んでいる様な口調で言った。
 理絵子が眠っている担任の意識に接触し、働きかけたのである。一種の催眠術と言って良い。
 以下担任朝倉の一人舞台の様相を呈したのでまとめる。まず“たこぶえ”の連中は、全ての事の始まりとなる男の子の転入を小学5年と言っていたが、朝倉が二人を知るのは彼らの中学入学当初から。あゆみ達の担任となり、彼のことで相談を受けるようになっていった。男の子の名は岩村正樹(いわむらまさき)。みんなと遊ぶというよりは、ひとりで本を読んでいるのが好きなタイプであったらしい。しかしそれが、よそから来たくせにいい子ぶりっこ、という反感を周囲に抱かせた。
 よそ者いじめである。これに彼女……あゆみちゃんが攻撃の矢面に立つ。ここまでは良かった。
 男の子に不幸が訪れる。両親が借金苦で自殺したのである。そもそもこの地へ引っ越して事自体、夜逃げ同然であったらしい。今に言う多重債務だ。当時サラ金地獄などと言ったが、理絵子はそんな語は知らぬ。
 なぜオレばっかり……自暴自棄になった彼は暴走を始める。虐げられた人間は、他を虐げたり、頂点に立つことによって、心の傷を補おうとするが、実際彼は、周囲が自分を避ける様を、離れ始めるのを、心地よいとすら思っていたようである。ただ、彼女だけは、それはいけないと言い続けた。彼も、彼女だけは裏切ろうとしなかった。
 そして、事件は起こった。
 台頭する彼の組織に対抗する他校の組織が、待ち伏せ攻撃を仕掛けたのである。

(つづく)

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2025年2月26日 (水)

【魔法少女レムリアシリーズ】14歳の密かな欲望 -05-

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「かといって本当のこと言うと萎縮するだろなぁ。王家の娘と言ったら皇族なみの対応が必要と考えちゃうからなぁ」
 相原学は高校時代から普段着にしている野暮ったい体操ジャージの袖を腕組みして言った。
「だよねぇ。嘘つくか。イヤだけど」
「そこまでせんでも。学校には外国の親戚を引き取りました、としか言ってないんだっけ?」
「そう」
「あと言ってあるのは?」
「外国のボランティアに参加して看護師の資格持ってます。但しEFMMとは言ってません」
 EFMM……国際医療ボランティア〝欧州自由意志医療派遣団(European Free-will Medical care Mission……EFMM)”である。彼女はそこで世界中を駆け回っていた。戦争・疫病・災害……北緯20度以南が多く、応じて炎天下の活動が多い。結果が日焼け優勢の肌である。なお、相原学とはその過程で知り合い、活動を共にし、年の差を超えて好き合った、とだけしておく。ちなみに同団所属のガチの姫様としてテレビに出たことがあるが、学校にはその娘と他人の空似ということにしてある。数名にはバレているようだが。
「じゃぁEFMMが余りに多忙で現地の学校に通えなくなったので、日本の親戚を頼ることにしました。そのまま社会人まで学習するつもりですって言っておき。定住、進学はウソじゃないんだから」
「うん」

(つづく)

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2025年2月22日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -043-

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 横須賀は、折りたたみの携帯電話をパチンと閉じ、ショルダーバッグに収め、下駄箱の上に置いた。
 靴とストッキングも脱いで部屋に上がり込む。
「……ちょっと頑張っててね。これじゃ寝かせる場所もない。こういうのってね、全身の筋肉が意識と無関係に勝手に動いた時起きるの。内臓の中のモノが筋肉に押されて上から下から全部出るのね。まぁ、あなたもあと10年ほどすれば判るとは思うけど」
 横須賀は言いながらつま先立ちで台所へ向かい、ゴミ箱に捨ててあったコンビニストアのビニール袋を足先に巻いた。
 理絵子は横須賀が冷静に事態を捉えていることに安堵した。10年の話はさておき、前半については、恐怖によって意識が暴走、“意識の制御を外れたフルスロットル”で、身体に力が入った結果、と解釈すれば、理絵子の直感である潜在意識のなしたこと、と一致を見る。
「おまたせ」
 横須賀がとりあえず畳一枚掃除してくれたので、担任を寝かせる。着替えさせ、タオルを湯で湿して身体の汚れを拭き取り、引き続き二人がかりで部屋全体の掃除にかかる。放っておけるような状況ではないし、まるで何もなかったかのようにするためもある。
 小一時間要したが、フスマの破れやシミなど現状復帰とは行かぬまでも、人が住む部屋としての体裁は取り戻した。
「すいません、わがまま言って」
 理絵子は頭を下げた。
「いいのよ。……ああ、あなたそのセーラー脱ぎなさい。何か適当に着るもの買ってくるから。それこそ朝倉さんがそれ見たら良くない」
 横須賀は言い、朝倉のものであろうサンダルを突っかけ、部屋を出て行った。
 目の下にどす黒い隈を作った担任の顔を見下ろす。この問題は心の中の“亡霊”を消去しない限り解決しないが、それには担任が何を隠しているのか知る必要がある。
 それは最初、担任が起きてから訊こうと思っていた。しかし、意識が清明ではその話題に向かうとフィルターを掛けてしまい、話してくれないであろう。かと言って超感覚でさぐり出すのは、“知られた”という意識を担任に生み、それが引き金となって発作に至る可能性が考えられる。

(つづく)

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2025年2月15日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -042-

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……自分に、その亡くなった少女“あゆみ”の面影を見ていると理絵子は知った。
 まずい。
 その表情今まさに恐怖の絶叫へ変形せんとする朝倉を、理絵子は抱きしめに行った。
 間断なく震える身体。冷汗に濡れた肌。
「先生大丈夫。黒野です。何も怖くない。怖くありませんから。誰も先生に手を出そうとなんかしていない……」
 理絵子は力の限り抱きしめ、囁いた。
 激しい恐怖。これ以上あろうかと思われるほどの深淵にして深刻な恐怖。
 恐怖に重なり、フラッシュバックでもたらされる少女の姿。
 朝倉の恐怖の根源は、その少女“あゆみ”が仕返しに来るのでは……という、一瞬たりとも途切れることのない強迫観念にあったのだ。慚愧の思いが“亡霊”を生み、よく似ているらしい自分によって連想想起され、責めて(誤字ではない)来るのだ。
 名実ともに“発作”である。
 かわいそうな先生。理絵子はぐらりと、身体まで動いたかと思うほど心揺さぶられ、こみ上げるような同情と愛おしさをこの女性に感じた。誰にも何も言えずに、恐らく十年を超える時間であろう、一人でずっとそんな恐怖と戦ってきたなんて……。
 解きほぐさねばならない。そう思った途端、腕の中の力が抜ける。
 受け止められたこと、によって、恐怖に立ち向かう“最後の手段”としての怒りを消滅させたのであろう。スイッチが切れたように失神している。
「救急車呼ぶ?」
 横須賀が携帯電話片手に訊いた。
「だめです。先生は恐らく自分がこういう状態になったことを自覚してません。却って病院で目を覚ました時の反応が恐ろしい」
 理絵子は言った。この惨状は恐らく担任の潜在意識のなしたこと。つまり、顕在意識が押し殺している内容の権化。
 従って、病院で目を覚まし、その理由を知ることは、意識したくないモノを意識させることになる。
 そんなことしたら、何が起こるか。
 このビリビリネグリジェの意味するところは。
「わかった。あなたの言う通りだ」

(つづく)

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2025年2月12日 (水)

【魔法少女レムリアシリーズ】14歳の密かな欲望 -04-

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 さて家庭訪問・進路面談となった場合、一般に生徒とその親がぶっつけ本番で教諭と対面することはあり得ない。親子の意見と教諭向けの見解を事前にすり合わせるというのが普通だ。
 但し彼女の場合。
「私が日本に来たいきさつを、それなりに納得してもらえる内容で説明する必要があると思うんですよ」
 彼女は座卓代わりにしている布団を外した炬燵に横座りし、湯飲みのお茶を飲んだ。
「そうねぇ」
 お知らせプリントを手にした白髪混じりの女性が呟く。相原(かおる) 。彼女の夫候補の母親。
「無難なのはイトコかハトコか」
 隣に座る眼鏡の男が言った。夫候補、相原(まなぶ) 。22歳。すなわち彼女の7つ上。宇宙機のエンジニア。
「“実家”は、言ってもいいよとは言ってますが」
 実家、と彼女が指さしたのは卓上のタブレット端末である。画面には東洋系の女性と、比して碧眼に顎髭の男性が映っており、軽く微笑みを浮かべている。
 欧州が宗教紛争に明け暮れて以降、魔術を持って仲裁の任を担って来た欧亜国境の小国、アルフェラッツ王国の国王夫妻である。
 彼女はその娘である。本名をメディア・ボレアリス・アルフェラッツ(Media Borealis Alpheratz)という。称号は北天の花冠。要するに魔法の国のお姫様、すなわち魔女である。ただ、21世紀科学文明にあって“魔法で仲裁”など生じるわけもなく、彼女は王家を引き継がないと決断し、応じて結婚前提で日本に帰化した次第。相原姫子はそれに応じた仮の名である。なお、原宿でスカウトされる……日本にいて異国の出自と見られないのは、先祖が魔術を会得したパルミラの巫女だったからとされる。新約聖書に出てくる“東方の博士”の末裔を名乗って列強に売り込んだとも。

(つづく)

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2025年2月 8日 (土)

【理絵子の夜話】空き教室の理由 -041-

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「黒野さ……」
 施錠されていたドアが開く。一般的には超常現象と認識される。
 横須賀は何か言いたくなったのであろう。しかし、それを口にする前に、深刻な事態が二人を迎える。
 内部が真っ暗であり、詳細な描写を躊躇う臭気が充満している。
 横須賀が臭気に対して当たり前の生理的反応を訴え、後ろを向いた。
 その時。
 野獣の雄叫びのような声が聞こえ、暗闇の中から金属光沢が矢のように突き出されて来た。
 それはぼろ布のようなモノを身体に纏い付けた、担任朝倉とおぼしき人物。よく見れば、布のようなモノは、ビリビリに引き裂けたオレンジの水玉模様のネグリジェ。
 血管が子細に見えるほど赤く腫れた目を見開き、それこそ野獣のように大口を開いて、包丁もろとも突進してくる。
 まるで鬼。
 それは朝倉が錯乱し、体当たりの要領で刺し殺しに来たと書けば、端的な表現になるか。
 今度こそ念動が欲しい、と理絵子は一瞬思った。しかし、まだ十分に時間はあるとも思った。ちなみに、このように一般にパニックになりそうな状況でも彼女が冷静なのは、そういう“予感”がしないから。
 黒い革の学生カバンで左から右へ薙ぎ払う。
 包丁が弾かれ、宙を一閃して、玄関脇の壁面へ突き刺さる。
 鋭い金属音が響き、虚を突かれた表情で“鬼”朝倉が立ち止まる。ちなみに字面で一連の動きを書くとこのようになるのだが、横須賀には“目にもとまらぬ早業で”理絵子が何かした結果、包丁が壁に刺さった、としか見えていない。
 騒ぎ立ててはいけない。同じくいきなりもたらされた結論で理絵子がまず思ったこと。
 室内を見て取る。想像を絶する状況を呈している。散乱している……排泄物と吐瀉物。
 横須賀を振り返り、声を立てるなと唇に指。
 顔を戻して。
「先生。大丈夫ですか?私です。黒野です」
 理絵子はまずは尋常に声をかけた。
 朝倉は理絵子を見返した。鬼の様相のその目が泳ぐ。瞳が動揺する。

(つづく)

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